ニューヨーク歴史:20世紀史(being capital of the world)

ニューヨークの20世紀史は、これまでのニューヨーク史と比して、さらに急速な発展を遂げ、さらに広範囲に歴史は展開されます。アメリカの産業が世界第一位の座をイギリスから奪い、2度の大戦の経緯から国連本部が置かれ、政治的にも世界の首都となります。同時に文化や経済面においても主導的地位を確立します。世界のあらゆる民族・価値・資産が集合し共存します。ニューヨークが世界の首都と呼ばれるようになる過程を見ていきましょう。以下に、1900年代の前半と後半に分けて説明していきます。

(20世紀前半)街の発展

マンハッタン島は、19世紀末には未踏の地がなくなりました。同時に建物は高層化の時代に入り、1910年代から超高層化ビルの建設が始まります。市街地の中心もグリニッジビレッジよりさらに北上して、ブロードウェイから5番街へ中心が移っていきます。デパートなどの商業エリアもさらに北上、5番街の57丁目あたりに移動しました。1930年代には34丁目にエンパイアーステートビルが、49丁目にはロックフェラーセンターが建設されます。30年代には現在の市街地の中心地ロックフェラーセンターが開発され、現在のマンハッタンの景観のほとんどが完成しました。

(20世紀前半)移民によるインパクト

19世紀世紀末~20世紀の初頭にやってきた移民の末裔が、今日のアメリカ人口の9割を占めているように、この時期には大規模な移民がヨーロッパから渡ってきました。軍事産業、自動車、家電、流通革命等の飛躍的発展の下には常に安価で豊富な労働力がありました。アメリカへの移民最盛期を見てみます。

エリス島

エリス島移民局蒸気船の時代、アメリカの玄関口とも呼べる移民局が置かれていた、ニューヨーク湾にある島です。映画タイタニックを見れば一目瞭然だと思います。船底の4等客室には貧しい移民が乗っており、自由の女神を夢見るシーンが出てきます。 新天地を夢見て大西洋を渡ってきていたわけです。自由の女神の立つリバティー島の隣にある島がエリス島です。1913年までの期間、ヨーロッパからの移民を受け入れる移民局が置かれていた場所です。移民船は、ハドソン川に寄航、1等・2等客室乗客などは船内で移民審査され、そのままマンハッタンに入れました。他のほとんどの移民は船を移りエリス島に運ばれ、そこで移民審査の後、アメリカ人になる宣誓を行いマンハッタンに入れたわけです。 現在でエリス島は、移民博物館となっており、自分のルーツを探るアメリカ人観光客で賑わっています(自由の女神に行くリバティーフェリーはエリス島にも経由します)。

新移民・政策

1900年のニューヨーク市の人口の23%はドイツ系移民。ブルックリンだけでみれば、35%がドイツ系でした。現在でもアメリカの人口ではドイツ系移民の子孫が最多です。そのドイツ系や、イギリス系、アイルランド系移民を旧移民と捉えますと、イタリア系、ユダヤ系をはじめとした新移民が次から次に入ってきました。1900年代からはカリブ海諸国からも多くの移民がやってきます。 旧移民同様、新移民も次に入ってくる民族を差別する傾向が強かったようです。第一次大戦後、移民排斥運動が高揚し、アメリカは自国経済の保護を目的として移民を制限、とりわけアジアからの移民を厳しく制限します。 中国系や日系をはじめとするアジア系移民も多くが差別を受けます。特に中国系は女性移民を禁止、また子孫も残すことを禁じられた時期もありました。

黒人街ハーレム

リンカーンが奴隷解放宣言を発布したのが1862年。その後、アメリカ南部の黒人は、差別の緩やかなシカゴやニューヨークに移住してきました。黒人はテンダーロイン(ウエストサイドストーリーの舞台とも)と呼ばれる現在のタイムズスクエアーの西に多くが居住します。また、1900年あたりからカリブ海諸国、とくに1917年にアメリカ市民権を得ることができるようになったプエルトリコからの移民が大挙として押し寄せます。それにプッシュされた形で黒人はセントラルパークのさらに北のハーレム地区に移動していきます。

1900年代初頭は、ドイツ人が半数、残りをイタリア人、アイルランド人、ユダヤ人で占めていたハーレムでしたが、徐々に黒人の居住区と化していき、1930年代には現在のハーレム、黒人街の姿ができあがりました。

1920年代は当地では、ハーレムルネッサンスとも呼ばれる時代で、黒人文化が開花いたします。コットンクラブ(ビリー・ホリデイやデューク・エリントンなどが有名)やアポロ劇場(最近ではマイケル・ジャクソンのデビューなどで有名)ではジャズやブルースがもてはやされました。黒人差別が緩やかなものになったとはいえ、観客のほとんどがミッドタウンの白人裕福層であった点は重要です。奴隷は自由になりましたが、黒人に対する差別観はまだ大きく存在していたのです。また、1920年代の禁酒法時代にもハーレムでは密造酒が流通しており、ハーレムでのショービジネスや、密造酒がマフィアの主要収入源であったことも事実です。

ユダヤ人

1880年から1920年までの間に、約200万人のユダヤ系移民が東欧から海を越えてきます。ユダヤ人はローワーイーストサイド(特にリトルイタリーの東、チャイナタウンの北東の区域)に大きなコミュニティーを形成しました。(現在でもHester Streetはユダヤ人街の名残が多く残っています。 )200以上ものシナゴーグ(ユダヤ教会)と宗教学校を設立し、文化と宗教に深く根付いた生活様式を受け継ぎます。また、コミュニティー内で社会人学校や夜学を設立し、英語教育にも熱心に取り組みます。この教育熱心な性質のおかげで、ユダヤ人は教育機関や医療機関に大きく影響を与えています。

※ 少し踏み込んだアメリカ社会のユダヤ人論

日本人

特記する必要はないと思いますが、日本人のアメリカ上陸第一人者は、幕末に海軍士官学校教諭になったジョン万次郎(1850年。当時の幕府は鎖国下にあり、海外への渡航を禁止していた。例えば、海外留学を志し、貿易船に乗り込んだ吉田松陰はのちに死刑)。万次郎は、漂流しアメリカ漁船に救出されそのまま渡米。次世代が、1860年、ジョン万次郎、勝海舟、福沢諭吉らを乗せた咸臨丸。ここで幕末の風雲の中に突入し、竜馬、薩長による大政奉還を見て1868年、明治維新が成る。戊辰戦争での旧幕府の最後の抵抗、賊軍会津若松の敗戦。1869年、その会津若松からアメリカへ天地を求め移民した者が、アメリカ移民の第一波となる。およそ4、50名がサンフランシスコに渡り農場経営(若松コロニー)をはじめるが、ほとんどが離散または絶滅(資料少なし)。しかしながら、日本は、列強から侵略され植民地化されることを畏怖し、西洋文明を貪欲なまでに吸収せざるを得ぬ後進国であったため、明治の夜明けとともに、海外への留学が盛んになる。同時に、アメリカへの移民の波といえる動きが活発化した。当初は、西海岸への移民が中心であり、労働者としてクーリー(中国人労働者)とともに大陸横断鉄道などの敷設要員や、農場夫となる。これらは全て西海岸での話し。民間レベルでは、中国人とともに差別視され、1900年代からは、排日運動、大戦時には土地資産の没収、強制収容所への連行という行政的にも差別を受けた。

東海岸のニューヨーク、その日本人移住史。日本人の東海岸への移住は、俗に、貿易商、領事官僚、官費留学生(主に侍や軍人)からはじまる。西海岸と違うところだ。西海岸には骨をうずめる覚悟で移民してきたものも多かったが、東海岸への移民は、西洋文明を吸収しそれを日本へ持ち帰るという目的の定まった一時的な駐留であり、時代も若干遅い時期に始まる。第一団は明治維新後の1870年頃から入りはじめた留学生である。後に同志社大学を興す新島襄、越前藩主の命を受けた日下部太郎や、海援隊の菅野覚兵衛や白峰駿馬らが次々に東海岸のラトガース大学といった有名校に留学した。1880年頃には、既に茶や主に生糸貿易で資産を成す「佐藤新井組」もニューヨークに興った。丁度、アメリカでは産業革命真っ只中で、鉄鋼業、石油、自動車、金融などの産業が勃興する時期で、飛躍目まぐるしい時期であった。ニューヨークには秋山真之のような海軍留学生も滞在している。ブルックリン橋を渡ってブルックリン海軍造船所も視察していたのではないだろうか。

1900年代に入ると、ブルックリン(コース12番)に日本人村もでき、マンハッタンでも、高峰譲吉野口英世らが活躍。日本人会の前身となる日本人クラブの設立をみる。戦時中、西海岸の日本人への迫害の激しさに比べれば、ニューヨークでは不動産も資産も没収されることはなく、差別は特に酷いものではなかった。これは愛すべきニューヨークの気質ともいうべきもので、ニューヨークには入植当時から宗教や民族に対する差別は比較的穏やかな性格であったためで、また、民族問題は、雑多な都市の一部分にしか過ぎず、雑多な民族の中でも日本人は特に際立つ民族ではなかったためでもある。

戦後は、ソニーの盛田会長など日本のメーカー、商社、銀行のビジネスマンが、日本経済を背負い駐在員という肩書きでニューヨークに渡り日本との通商に貢献。駐在員という名の通り、皆、任期があるため日本へ帰国する運命にあるが、1970年代、80年代ころから日本に帰国せず永住する者が多くなってきた傾向が見受けられる。

また、90年代ころから留学が流行とも言うべきものとなり、日本のバブル経済の恩恵を受け、遊学目的のその子息も多く見受けられるようになったのは、当初の日本を背負う重責を担った官費留学のそれと異なる点である。

現在では、ニューヨークには5万人から10万人もの日本人が住むといわれる(旅行者でそのまま居ついた者、領事館に在留届けを出していない者も多いため、推計であるが、2007年時点のニューヨーク領事館調べでは、日本人の在住者は6万人と出ている)。今後も増加するであろう、ニューヨークの日系人、みな同胞である。日本人として恥ずかしくない生き方で、このアメリカの地で、共に助け合い支え合って頑張ろうね!恥を知っている民族は世界広しと言えども日本人だけなのだから…。

(20世紀前半)産業

産業は更に多様化し、発展のスピードが加速します。産業革命を牽引した鉄鋼・鉄道などの重工業の他、新しく自動車、航空飛行などの産業が生まれます。出版・印刷という新しいメディア産業も新興します。デパートはショーケースのように豪華で、世界中の商品が置かれるようになりました。しかしながら、アメリカ経済は、その史上最高の栄華を誇る20年代と、最低の不景気に見舞われる30年代をともに経験しています。

摩天楼

エンパイアーステートビルと飛行船マンハッタン島では既に未踏の地がなくなります。富豪や財閥は、高層化建築で富を競い合います。以前は壁が建物の重量を支えていましたが、鋼鉄(スチール)の使用により、建物はより高く、窓も大きく取れるようになり室内には陽の光が入り込みます。高層化建築の先駆となったのが23丁目のフラット・アイアンビルです。まだ蒸気力によるエレベーターが主流の1901年にワイアー式エレベーターを備えた高さ100メートルのビルが完成しました。

その後、パクス・アメリカーナの1920年代にはまさに高層化ラッシュを迎えます。アールデコ様式の壮大で優雅なデザインで、特に有名なエンパイアステートビル(建設風景写真:エンパイアステートとはニューヨーク州の呼称)や、クライスラービルが建設されました。また、1929年の大恐慌後にはニューディール政策の一環として、ロックフェラーセンターの建設が始まり、労働者雇用に大きく寄与しました。

ロックフェラー・Jr(ロックフェラーの息子)は、ニューヨークの心臓部49丁目と5番街を正面として、横は7番街まで、縦は48丁目~52丁目までの広大な土地に高層ビルを建設します。精油会社のエクソンなどロックフェラー系列会社が入居します。当時画期的であったのが、都市開発として街と商業地区を融合した点です。地下街でビル間の移動を可能にし、地下鉄へのコネクションも容易になります。また、中央にはスケートリンクが位置し、クリスマスの巨大ツリーは現在でも冬の風物詩となっております。

ニューヨークの摩天楼のほとんどが1930年代までに建設されていたという事実には誰もが驚かされます。

地下鉄(サブウェイ)

地上を走っていた蒸気機関車も、電化による地下鉄にその座を譲ります。1904年に、現在の4,5,6ラインが開通します。地下鉄は、地主や開発業者の要望もあって、マンハッタンからブロンクス区、ブルックリン区、クイーンズ区まで路線を伸ばしていきます。窮屈であるマンハッタンからサバーバナイゼーションが始まり、 近郊への移住が加速します。

経済・ウォール街

世界大恐慌時のウォール街の群集1919年、第一次世界大戦の終結後、若い兵士がヨーロッパ戦線から悠々と帰還、盛大な祝勝パレードをタイムズスクエアーで行います。パクス・アメリカーナというアメリカ史上最大の繁栄期(Lost Generationとスコット・フィッツジェラルドが呼びます)の1920年代が訪れたのでした。

このデケード(10年間)で、1920年には75ドルだったDow平均株価が、1929年には380ドルまで暴騰します。ロバート・レッドフォード主演映画グレートギャッツビーは、まさしく乱痴気騒ぎの1920年代をスコット・フィッツジェラルドが描写したもので、華やかなプラザホテルやニューヨークの社交界が描かれております。その栄華も1929年、ウォール街の株価大暴落に起因する世界大恐慌で幕を閉じます。失業率は30%を越え、長期的な世界同時不況は、暴落前380ドルだったDow平均株価を3年後には41ドルまで暴落させたのでした。380ドルという株価は、1955年までの25年間、元の値に戻すことができませんでした。それだけ1920年代はバブルであったとも言えますし、それだけ世界恐慌以降の不況が深刻なものだったともいえます。

タイムズスクエアー

マンハッタンを唯一縦断する大通りブロードウェイと7番街の交差点をタイムズスクエアーと呼びます。ニューヨークタイムズ紙の社屋ビル(ニューイヤーズイブのカウントダウンを行う場所)があった区画です。1800年代末には電灯が点り、昼夜明るい通りとなったことから”Great White Way”とも呼ばれました。ミュージカルの劇場が次々と建ち並び歓楽街として栄えます。太平洋戦争の終結によりマッカーサー元帥のパレードが行われた場所でもあります。

全米が注目する流行発信地でもあるため、ニューヨークでも当地だけは特別にイルミネーションが許可されています。現在では、ナスダックスタジオや、MTVスタジオ、ABC局スタジオ、ロイターなどの放送局も入居するエリアです。

出版・印刷・広告

1900年を堺にニューヨークはメディア産業が勃興。ニューヨークタイムズ紙、リーダーズ・ダイジェスト、タイム・マガジンなど社会的影響の大きい紙面が次々に登場します。広告業界も同時に興ります。マディソン街とパーク街は全米最大の広告産業区となり広告代理店が高層ビルに入居しました。この頃には高層ビルに入居することがビジネスの成功とも評され、高層ビルの建設ブームを牽引しました。

公共事業

公園、道路などは30年代から、ルーズベルト大統領によるニューディール政策の一環として、ラガーディア市長や、市の土木部長ロバート・モーゼスの指導下で開始されました。

大統領は、比較的政策の成功が望めるニューヨークに連邦予算を割り当てました。川沿いのスラムエリアを取り壊し公園を次々に建設。セントラルパークでも大規模な修復作業が行われます。大恐慌下の雇用創出が目的でしたが、結果的に公共事業は成功し、ラガーディア市長、モーゼスともに高く評価されます。

その後、モーゼスはニューヨークの建設にかかわる権力を掌握し、1950年代まで独裁ともとれる建設計画を次々と実行に移しました。中でも、マンハッタン外周のフリーウェイ、マンハッタンとクイーンズ区・ブロンクス区を結ぶトライボロ橋、マンハッタンとブルックリン区を結ぶマンハッタントンネルなどを建設していきます。

(20世紀前半)人々・暮らし・生活と文化

2度の世界大戦を経験し、20年代という好景気、30年代という大不況などを味わいます。世界恐慌による失業率の拡大や、資本主義による競争社会により、さらに貧富の差は広がります。戦時中はドイツ移民に対する差別などもあり、ドイツ語やドイツオペラを制限します。

ギャング

19世紀末よりギャングが、ギャンブルや土地の利権売買により力を持ちます。民主党政治団体のタマニーホールは、アイルランド系ギャングを擁して、警察や裁判官の買収、選挙での買票などで市政に深く入り込みます。ギャングは政治家にとっての集票、資金調達に必要な社会組織だったわけです。

その後20世紀に入ると、新移民のユダヤ系ギャングやイタリア系ギャング(おもにマフィアと呼ばれる)が新たな犯罪組織となります。賭博(ギャンブル)や土地の利権などで収益をえます。その後、マフィアが最も勢力を拡大したのは、禁酒法時代(20年代)の密造酒の製造とその流通販売を支配したことによります。シカゴを舞台にアメリカの酒を支配したアル・カポーネもニューヨーク出身。

市政(フィオレロ・ラガーディア市長)

フィオレロ・ラガーディア市長ニューヨーク史に残るイタリア系の共和党市長。小さな花とよばれ、体格が小さかったそうですが、バイタリティーにあふれ、勧善懲悪主義を貫徹し犯罪組織を壊滅させた偉業を遂げます。若い頃は夜学に通い、エリス島の移民局でイタリア移民のために通訳をしていました。

大恐慌後の景気が最低だった1933年にニューヨーク市長に選出。フランクリン・ルーズベルト大統領(FDR:アメリカ最長の4期選出された大統領。大恐慌を、雇用と国内需要創出を掲げたニューディール政策を推進し、第二次世界大戦下をリード)のニューディール政策に同調し、橋、学校、病院、公園など多数を建設します。在職中に自分の名前をつけたラガーディア空港も建設し、ニューヨークの景観を大きく変貌させました。

また、ニューヨークの伝統であった民主党主導による悪政を猛烈に批判。ニューヨーク民主党の政党マシーン・タマニーホールの資金源を断つため、ニューヨークでのギャンブルを禁止します。密造酒流通(20年代は禁酒法時代)も厳しく取り締まり(→マフィアやギャングは資金源を絶たれラスベガスを建設)、タマニーホールの勢力はその後弱体します。自分もイタリア人でありましたがイタリアンマフィアとの攻防のため、幾度か暗殺されそうになったそうです。

娯楽施設

ブロンクス動物園(アメリカ最大)や、コニーアイランド、ヤンキースタジアムなどニューヨーク庶民にとっての娯楽施設が設立されました。

ヤンキースタジアムは1923年に建設、同時にベーブルースも入団。ヤンキースはまさにニューヨーク最大の娯楽施設となります。

また、コニーアイランドはニューヨーク唯一のビーチリゾートとして開発されます。マンハッタンからのマス・トランジットである地下鉄が開通し、豪華なホテルが建ち並びます。現在でも7月4日の独立記念日の恒例となっている、ネイサンズのホットドック大食い大会は世界的に有名です。

グリニッジビレッジの芸術家村

19世紀には、黒人が多く居住していたワシントンスクエアー周辺ですが、市街地が南から北に広がるとともに、シアターなどができ、イタリア人をはじめとした多くのヨーロッパ移民が居住します。

20世紀に入ると、地下鉄の開通、自動車の普及によりマンハッタン近郊に人々が移住する流れができ、その賃貸の安くなったアパートに芸術家が移り住みました。

グリニッジビレッジは、エドガー・アラン・ポーに代表されるように詩人を多く輩出しております。当時は、ビレッジの画家や、小説家、劇作家はボヘミアンと呼ばれていたようです。芸術家にとどまらず、ビレッジには自由な雰囲気があり、人々は自由主義を思想的背景に持っております(ベトナム戦争下の平和主義運動も)。社会的活動家も多く、女性運動、同性愛運動などもビレッジが発祥の地でもありました。

(20世紀後半)街の発展

マンハッタン島は南北24キロ、東西4キロほどしかない小さな島です。この小さな島にあらゆるもの全てが詰まっております。現在でもさまざまな地域でその住民やエリアの特徴、役割がことなっています。自然に、また計画的に現在の形が形成されましたが、簡単な特徴は次のようにいえます。

  • マンハッタン島を縦長のドーナツ型と考えると、まず外周は自動車のフリーウェイ(1)となっている
  • そのひとつ内側が工場エリア(2)で発電所や倉庫などが並ぶ
  • その内側が住宅エリア(3)
  • さらに内側(中心の5番街)が商用エリア(4)
  • その内側が住宅エリア(3)

区画はゾーニング法により制定されており建物の高さも底辺の広さにより制限されており、コマーシャルエリア、レジデンシャルエリアなども細かく制定されました(ニューヨーク・ゾーニング法)。

港湾委員会

世界貿易センター同時多発テロ1920年代からニューヨーク港湾委員会(New York Port Authority)がニューヨーク近郊の交通機関を整備していきます。

ニューヨーク・ポートオーソリティーは、ニューヨーク州とニュージャージー州が協力し設立された機関です。アメリカ最大の港・ニューヨーク湾の管理をはじめ、自動車の爆発的な普及に対応し、さらに飛行機の民間利用が開始されましたので、その需要に対応すべく飛行場を建設していきます。ホーランド・トンネル(1927年、チューブの管をハドソン川に沈めて建設)、リンカーン・トンネル、ジョージワシントン・ブリッジといった、ハドソン川向こうのニュージャージー州とを結ぶ交通路も建設します。

42丁目のポート・オーソリティー・バスターミナルにはニュージャージー州に向ける6000台のバスが一日に発着するようになります。ポート・オーソリティーはその後、ケネディー空港やワールド・トレードセンターも管理下に置いています。

郊外化移住

サバーバナイゼーションと呼ばれます。1950年代にはニューヨークの人口が770万に達しピークを迎えます。ニューヨーク市の公共事業を担当していたロバート・モーゼスは、郊外化の一環としてフリーウェイの建設を行いました。

ニューヨーク市におけるモーゼスの権力は相当なもので、公共事業にかかわる権力はすべて手中に収めているような人物でした。West Chesterまで、マンハッタンからブロンクスを経由したディーガン・フリーウェイなどは、高所得者のエリアを結んだフリーウェイとして批判されたようです。しかしながら、30年代からの、公園、橋、トンネル、公共住宅などを次々と建設していったモーゼスの業績は実に見事なものでした。

公共住宅

公共住宅(Public Housing)の建設がはじまったのは、1930年代の半ばからです。低所得者出身のラガーディア市長の時代から今日まで市の予算で数々の市営住宅が建設されました。

マンハッタンでは、低所得者層の住むテナメントを取り壊し、新しくアパート・コンプレックスを建設していきます。特に東のイーストリバー、西のハドソン川といった川沿いに開発は進められました。

1950年代以降は、マンハッタンでも黒人居住区であるハーレムや、近郊のブロンクス区やブルックリン区にも多くの市営アパートが建設されます。ハーレムなどは黒人の市民権闘争(60年代)の後、多く建設されましたが、ほとんどが低所得者層のプロジェクトと呼ばれるアパートで、市の福祉が家賃のほとんどを負担しています。

世界の首都へ

国際連合本部ビル第二次世界大戦が終戦し、国際連合が設立されることになります。ボストンなど主要都市が誘致案を出しますが、対してニューヨークは何としても国連を誘致したいのですが、ニューヨークには肝心の土地がありません。

そこで”Mr. Fixit(ニューヨークの修理屋)”モーゼスがイースト川沿いの工場地域で荒廃したタートル・ベイを推します。土地は不動産開発業者のZeckendorfが所有するものでしたが、財政難のニューヨーク(ニューヨークは常に財政難です)には土地を買収する財力がありません。決定期限ぎりぎりの1946年の12月7日の週末に秘密裏に会議が開かれました。

会議には、O’Dwyerニューヨーク市長、モーゼス、連邦政府の他に、石油王ロックフェラーの息子で慈善事業家として知られるロックフェラー.Jrと、その息子ネルソン・ロックフェラーの姿がありました。ロックフェラー家に資金を出資してもらうよう懇願したのです。

3日後ロックフェラーはゼッケンドルフの土地購入費用として$850万ドルを寄付すると発表しました。国連本部がニューヨークに設立されることが決まった瞬間でもありました。国連は、ロックフェラー財団の他、フォード財団などアメリカのさまざまな企業の寄付金があってこそ設立することができたといえます。

※ ロックフェラー家とモーゼスのコラボレーションとしては、音楽コンプレックスのリンカーンセンターもあります。荒廃した土地を再開発し地域を活性化させるという開発の仕方はお決まりです。

※ 今日のタートル・ベイにはマリリン・モンローの邸宅も残っており閑静な住宅街でもあります。

最新移民

アメリカへの移民が急増したのに対して、1882年に中国人排斥法を、また1920年代までにイタリア人とユダヤ人の移民を規制する法律が、さらに白人以外の民族を排除する1924年移民法が制定され、アメリカへの移民の流れが止まってしまいます。もちろん日本人も第一次世界大戦後から移民として入国できなくなりました(シベリアや北方中国でアメリカと利害を争うようになった為)。第一次世界大戦から第二次世界大戦までの移民規制の結果、1960年代にはアメリカ生まれが人口の大部分を占めるようになりました。当時の人口の大部分がヨーロッパを起源とするアメリカ生まれの移民の子孫でした。

ところが1960年代の公民権運動(一部は黒人による人権運動)の一環で移民規制が排除されると、カリブ海の島々から大規模な移民がやってきます。ドミニカ、ジャマイカ、バルバドス、トリニダードトバコ、タヒチ、キューバ、そして南米のコロンビアなどからです。そうして1980年代にはニューヨークの人口構成が大きく変わっていきます。

白人の人口が14%減少し、カリブ海諸国系の民族が27%上昇し、90年代に入りアジア系移民が倍に増加しました。ニューヨークの歴史を振り返ると(黎明期はオランダ人、イギリス支配下ではイギリス人、独立後はドイツ人、アイルランド人、19世紀末からはユダヤ人とイタリア人など)、常にマジョリティーとされる多数派の民族がいましたが、今日では人口構成が全く変わってしまったのです。ニューヨークは、世界中の民族が住む都市、まさしく世界の縮図となりました。

90年代は、まさしく最新移民の時代です。外国生まれの人口がさらに増加し、ニューヨークの総人口の30%近くが移民という状況になります。

今日の移民において、18世紀から続くニューヨークの移民史と比べて違うことは、すべての移民がヨーロッパからの移民ではないことと、はじめての居住区がローワーイーストだったのが、ニューヨーク市全域に広がったことです。とくにクイーンズ区、ブルックリン区などは移民の増加が顕著であり、エスニック都市となりました。

マンハッタンでもイタリア人やユダヤ人の居住区であったローワーイーストも80年代からの中国人移民の増加により、チャイナタウンが拡大し、リトルイタリーの区画を侵食する勢いです。今日(1997年)のマンハッタンの移民の人口構成は、次のようになっております。カリブ海諸国・中南米の民族(56%)、アジア系民族(31%)、ヨーロッパ系民族(9%)、アフリカ系民族(2%)。

芸術・文化

映画

もともと1900年代初頭にエジソン研究所でニューヨークの映画産業が興りました。その後、産業は、気候的条件のよいハリウッドに移動したといわれています。それでも、ニューヨークには映画学部で有名なニューヨーク大学や、パーソンズ大学、プラット大学といった有名な美術大学があり、黒人映画(スパイク・リー)、ユダヤ人映画(ウディー・アレン)、イタリア人映画(マーティン・スコセッシ )などのエスニック映画の監督が多く生まれる場所でもあります。俳優も多く事務所などもマンハッタンには数多く存在します。

音楽

音楽大学でも世界的に有名なのがジュリアード音楽院。1905年に設立されましたが、現在は、リンカーンセンターの建物内にあります。

同じアッパーウエストとよばれるセントラルパーク西側区域には、ジョン・レノンとオノ・ヨーコの住居であるダコタ・ハウス(コース16番)もあります。ベトナム戦争の反戦運動が起因で、ジョン・レノンはアメリカに入国できない時期がありましたが、ニューヨークでもジョン・レノンは反戦を訴えていました。

パンク・ミュージックで有名なシド・ビシャスは、チェルシーホテルの住人だったことも有名です。マドンナはイーストヴィレッジのライブハウスから活動を開始し、マイケル・ジャクソンのジャクソンファイブはハーレムから、レディー・ガガはブロンクスからスタートしました。

美術

ニューヨークの近代美術は、ポップアートと呼ばれる抽象画家運動により創り出されます。60年代より、アンディー・ウォーホールや、バスキア(共にイーストヴィレッジ居住)、キース・へリング(ウエストヴィレッジのブルーノート前に居住)という画家が活動。ロックという新しい流行とともに、自由主義、平和主義運動のムーブメントにうまく重なりました。

また、レント料の高騰により、芸術家はSOHO(South of Houston Street)というエリアに移っていきます(映画ゴーストや、9Halfに詳しい)。Sohoは19世紀に町工場だった区域で倉庫として使用されており、芸術家はそのようなスペースで活動を始めます。現在、Sohoは画商(アートギャラリー)や、ブティックが並ぶニューヨークでも最もファッショナブルな商業エリアになっています。

美術館

産業革命より財を成した富豪はこぞって印象派などの美術品を蒐集し、それを一般公開するための美術館を設立します。近代美術館、グッゲンハイム美術館、ホイットニー美術館、フリックコレクションなどすべて富豪が寄付して建てられた美術館です。

また、世界3大美術館のひとつに数えられるメトロポリタン美術館では、世界中の美術品を見ることができます。

全世界を見ても、ニューヨークは最も美術品が集められた都市であるといえます。