ニューヨーク19世紀の歴史は、イギリス王政から独立を果たして自由になったところから始まります。新しいエネルギー(移民の血)が注ぎ込まれ、19世紀半ばからは産業や文明が急速に発展します。まさに、ニューヨークひいてはアメリカが、「前進する息吹(Go ahead to be alive)」となる時代です。人々の暮らしを見ていきましょう。
18世紀まではマンハッタンの南端部分だけが街として働いていましたが、イギリス王党派の土地が開放されたこと、1830年の大火による裕福層の転居、急速な人口増加などが相まって、市街地が北へ北へ広がっていきます。
急速な発展により、19世紀末には未踏の地はなくなり、現在のマンハッタンの市街地ができあがりました。ボストン、フィラデルフィアを抜き、アメリカ最大の都市となります(19世紀後半に一旦シカゴにその座を奪われますが、ブルックリンがニューヨーク市に統合されることにより、1898年アメリカ最大都市を奪回)。
マンハッタン中央の5番街(5th Avenue)と西側のブロードウェイ沿いに北へ街は広がり、丁度マス目のように区画整理された街並みになりました。5番街にはギリシャ・ローマ風建築の邸宅が立ち並び(1850年代より邸宅建設が本格化)、ブロードウェイには観劇場やデパート、市場、工場が立ち並びました。ブロードウェイは、南北に24キロと長いマンハッタン島を縦断する、もともとインディアンの馬車道街道をそのまま利用しており、直線的な計画道路ではなく途中で折れ曲がっています。
ニューヨークは、イギリスの支配下から独立し、イギリスからの移民よりも多くの移民がヨーロッパから渡ってくるようになります。1800年代の前半は、アイルランド人とドイツ人が、また1800年代の後半には、イタリア人と東欧ユダヤ人が大西洋を渡ってきました。
19世紀の移民者のほとんどは、ロウアー・イーストサイド(現在のチャイナタウンやリトルイタリー)の狭いテナメント(安アパート)に住んでいました。生活や職が安定したファミリーは、このロウアー・イーストから北の地域や、イースト川の向こうのブルックリンに移り住みました。この4つの民族はともにアメリカ人として民族をアメリカに同化させていく者もいましたが、ユダヤ人、イタリア人などは自身の文化や習慣を現在でも受け継ぎ、自分たちのコミュニティーを引き継いでいる者もいます。
この一世紀で、1800年わずか7万6千人だったニューヨークの人口は、337万人にまで膨れ上がりました。アメリカへの移民は、史上最大の民族大移動であり、その入り口はニューヨークでした。
⇒ 右にスクロールできますニューヨーク市の人口推移 | ||||
年度(10年おき) | 総人口(千人) | 増減数 | 増減率% | 1.6キロ四方 の人口密度 |
1800 | 76 | 31 | 68.9% | 313 |
1810 | 114 | 38 | 50.0% | 469 |
1820 | 145 | 31 | 27.2% | 597 |
1830 | 236 | 91 | 62.8% | 971 |
1840 | 379 | 143 | 60.6% | 1,560 |
1850 | 682 | 303 | 79.9% | 2,807 |
1860 | 1,150 | 468 | 68.6% | 4,733 |
1870 | 1,444 | 294 | 25.6% | 5,942 |
1880 | 1,873 | 429 | 29.7% | 7,708 |
1890 | 2,455 | 582 | 31.1% | 10,103 |
1900 | 3,371 | 916 | 37.3% | 13,872 |
1910 | 4,681 | 1,310 | 38.9% | 19,263 |
1920 | 5,503 | 822 | 17.6% | 22,646 |
1930 | 6,771 | 1,268 | 23.0% | 27,864 |
1940 | 7,280 | 509 | 7.5% | 29,959 |
1950(ピーク) | 7,700 | 420 | 5.8% | 31,687 |
1960 | 7,560 | (140) | -1.8% | 31,111 |
1970 | 7,600 | 40 | 0.5% | 31,276 |
1980 | 6,719 | (881) | -11.6% | 27,650 |
1990 | 6,945 | 226 | 3.4% | 28,580 |
2000 | 7,565 | 620 | 8.9% | 31,130 |
2010 | 8,175 | |||
2020 | 8,800 |
大衆消費時代とニューヨーク
19世紀後半に大衆消費時代が到来します。それをとりまくように保険業、弁護士業などの新しいサービス業が生まれたのもこの時期です。富豪の邸宅は贅を極め、街は夜もガスライトで灯され、世紀末には電灯が昼夜明るいニューヨークを作り出しました。ニューヨークは、全米の富の約半分が集まり、富豪の半数が居を構えるアメリカ最大の商業都市となり、世紀末には、アメリカは、当時世界最大の産業国であったイギリスに肩を並べるまでに成長したのでした。
18世紀までは支配下であったイギリスの色彩が色濃かったニューヨークも、19世紀の新移民により、さまざまな色に彩られます。5番街を北に向かって富豪の豪邸が立ち並び、ブロードウェイ沿いにはファッショナブルなデパートが華を競い合います。 貧困格差が広がったことも見逃せません。新しくアメリカに移民してきた欧州人のほとんどは貧困層であり、新天地でも底辺の暮らしは厳しいものでした。彼らは、ローワーイースト(現在のチャイナタウン)の貧民街(ゲットーまたはスラム)のテナメント(安アパート)に居住し、土木工や、工場労働者、日雇い作業員として働きます。失業、貧困、病気、犯罪など社会秩序を損じた人々の生活があったのも事実です。
19世紀の前半に多くやってきた移民は、アイルランド人とドイツ人です。
アイルランドでのジャガイモ飢饉(100万人が餓死)が人をプッシュ(押し出す)し、新天地が人をプル(引っ張る)したと言えます。アイルランドから渡ってきた農村小作人は、道路や建物を作る日雇い土木工として労働に携わります。現在のニューヨークでも労働者階級が多い民族であり、公が提供する職である消防士や警察官の多くがアイリッシュです。また、団結意識が強く、カソリック(旧教)教徒であることも大きな特徴といえます。3月17日のセント・パトリック・デーでは、アイルランドにカソリックを布教した聖パトリックを奉り、ニューヨークの5番街をパレードして練り歩く姿はニューヨークの風物詩となっています。
対してドイツからの移民(大半は南部のバイエルン地方出身者)は、もともと毛皮貿易に携わっていたように商人が多く、ニューヨークの貿易業の中心的な役割を果たします。また、独自で商売を始める者も多く、工場主、テイラー(以前の服は特注でした)、靴やピアノ、タバコなどのメーカーを作り成功します。ドイツ移民は1870年代にはニューヨークの人口の1/3を占めるまで増加します。彼らはアメリカに溶け込むのが割と早く、ニューヨークから西へ移住していった者も多くいました。後のシカゴやシンシナティーなど中西部の発展にはドイツ移民が大きく関わっています。現在でもルーツ別に見ると、ドイツ人がアメリカでは最も多い民族です(ついでイギリス人、中南米人、アイルランド人、黒人、イタリア人)。
19世紀の後半に多くやってきた移民は、イタリア人と東欧系ユダヤ人です。
イタリアからは、オリーブやブドウ農園の不作が小作人をプッシュします。イタリア南部とシシリア島を中心とした移民が渡ってきました(映画ゴッドファーザーなど)。イタリア移民は、アイルランド移民と同じくカソリック教徒であったため、民族的な差別を受けたようです。ニューヨークの街や建造物を作る土木工などの労働力となります。19世紀後半のアメリカ産業革命でも大変重要な労働力となったわけです。また、イタリアからの移民は、同族意識が強く、アメリカに融合する者もいましたが、独自の文化や習慣を受け継ぎリトル・イタリーのようなコミュニティーを形成したり、本国に帰る者も多くいました。
同じ時期に渡ってきたイタリア人とよく比較されるのが、東ヨーロッパから渡ってきたユダヤ人の移民です。こちらは、当時隆盛を誇ったプロシア帝国(ドイツ)の支配下に置かれた、オーストリアやハンガリーからの移民(前期)と、帝政ロシアの迫害(ポグロム)を逃れてきたロシア・ポーランドからの移民(後期)で、政治的な理由が移民をプッシュしています。ユダヤ人は勤勉で教育に熱心でした。学術関連で成功を収め(確かに大学の教授はユダヤ人が多かったです)、教育機関、病院・医療施設、政治官職などの仕事に関わります。また、商売でも独自のネットワークを基盤に、新しい産業となった服飾(アパレル)産業や宝飾産業などで成功を収めるものも現れました。新移民居住区のローワーイーストのシナゴーグ(ユダヤ教会)を中心にコミュニティーの形成も堅持し、ブルックリンのウィリアムズバーグなどにも移住し、新しいコミュニティーを形成しました。
※ ユダヤ人資産家、戦争との関わり、アメリカ移民についての考証
ニューヨークはアメリカ産業の中心であり、19世紀初頭も引き続き貿易や海運業が産業を牽引します。航海技術も進歩し、イギリスの貿易港、リバプールまで、はやい貿易船は2週間で到着するようになりました。ビーバーの毛皮貿易も1820年代まで隆盛を保ちます。毛皮貿易で富を築いたジェイコブ・アスター(アスター家は、19世紀のホテル・不動産王)は、発展の波がマンハッタンを一気に北上すると見越し、不動産業を開始し、街を北へ北へと開発していきます。
今日では、ニューヨークはウォール街が世界金融の中心となりましたが、アメリカ独立後、ウォール街が金融街に変貌したのがきっかけとなります。初代の財務長官には、ニューヨークの連邦派アレグザンダー・ハミルトン(ハーレムに生家が残っています。ツアー詳細 >>)が就任し、現在のFed(連邦準備銀行:Federal Reserve Bank)の基礎を作ります(*1789年)。ハミルトンは、The Bank of New York (ニューヨーク銀行)も設立し成功を収めます。ウォール街には、銀行の他、保険事務所、証券取引所、オークショニアなどが立ち並びます。こうして、ウォール街は一躍アメリカ金融の中心地となり、今日の金融街の基盤ができ上がりました。
1807年、ロバート・フルトンにより蒸気船が開発され、マンハッタン、ブルックリン間を連絡船として繋ぎます。蒸気船はその後、航海船や貨物船として船舶の主役となります。また、1825年には、マンハッタンの西を流れるハドソン川と、5大湖を結ぶエリー運河が開通。中西部の穀物、石炭などの燃料がニューヨーク港まで運ばれる交通の中枢となります。また、1832年にはマンハッタン内で鉄道が開通(ハーレムライン)。蒸気機関車によるマス・トランジット(大量移送)が可能になります。当時はまだ地下を走ってはおらず、地上では馬車が闊歩し、道路の上に高架を設置し、その上を蒸気機関車が走りました。
それまでのニューヨークでは、水は井戸水を利用していました。とても不衛生で、1830年代には井戸水が消費量に追いつかなくなります。1837年から5年がかりで、Westchester (日本企業の駐在員が多く住む、マンハッタンの北にある住宅エリア)から水を引いてくる大工事が始まりました。水路は、鉄のパイプで作られ、パイプラインは約50キロの距離となりました。ウエストチェスターからイースト川を越え、ハーレムから79丁目(現在のセントラルパーク内)と42丁目(現在の市立図書館)の貯水池まで引かれました。この事業は、アイルランド移民をはじめとした多くの移民者の安価な労働力があってこそできた産物です。クロトン・ダムから水を引いており、クロトン水路(Croton Water)と呼ばれています。
19世紀半ばからアメリカでは産業革命の波が訪れ、資本主義勃興が本格化する時代となります。南北戦争の軍需特需のような景気もあり、波にのった大富豪たちが生まれます。新しい産業の中心は、鉄に関わる、製鉄業、鉄道、駅舎・交通業、それと石油や電気に関わるエネルギー産業でした。こういった新しい産業は、密接に繋がりあい、一つの産業革命という時代を作り上げたのでした。アメリカ富豪の総資産ランキングでは、一位のビル・ゲイツを除いて、2位ロックフェラー、3位カーネギー、4位ヴァンダービルト、と産業革命当時の富豪たちが名を連ねております。
スコットランドからの貧困移民、鉄鋼王:アンドリュー・カーネギーが最も有名です。1860年代より、石油、電話、鉄道と新しい時代の中心産業となる事業に次々に投資しました。しかし、当時イギリスでは新しい製鉄方法が開発されており、丈夫な鉄鋼の製造が可能になったことに将来の需要を見出だします。石炭王:ヘンリー・フリックを脇に従え、ペンシルバニア州のピッツバーグに大規模な製鉄所を設立します(石炭は鉄を溶かす際に重要でした)。従来の製鉄された鉄は硬すぎて脆いため、巨大建造物を支えることができなかったのが、製鉄技術の向上により鋼鉄(スティール)の生産が可能になり、また、工場での大量生産、鉄道での大量輸送により時代は確実に進歩しました。後の、1901年にカーネギー製鉄社は、金融王:J.P.モルガンに売却され、カーネギーは社会事業家に転向し、カーネギーホールやニューヨークへの図書館設立などに貢献しています。
鉄道といえば、現在では古臭いイメージがありますが、19世紀半ば以降の西部開拓、南北戦争(軍需産業)、石油や石炭などのエネルギーの輸送などにおいて、その主役の座にあったのが鉄道産業でした。まさしく当時の金融資本の中枢を担う産業です。 鉄道王:ヴァンダービルトは、アメリカ陸軍の輸送にかかわる利権をもとに、鉄道の一大帝国を築きました。マンハッタン42丁目のグランドセントラル駅も設立し、そのパーク街には銅像が建っております。また、今では金融王のイメージが強いモルガン家も15社の主要鉄道会社を支配していました(J.P.Morganは3代目)。
1800年代の鉄は2種類ありました。1800年代中頃に使用された鉄は、Cast-Iron、つまり鋳鉄です。それまでの建造物は、石を積み上げて建物の重量を支えておりましたが、鋳鉄建築では、建物の外部に鋳鉄の柱をつけることにより、その重量を支え、建物は高層化建築に変わっていきました。Sohoというエリア(ローワーイーストの北)に鋳鉄造りの建造物が多く作られ、Steinwayのピアノ工場があったように町工場として機能します。1800年代の後半には、鋼鉄(スティール)の製造が可能になり、建物はより高く、より大きくなります。鋳鉄は錆て脆いため、錆止めのペイントが常に必要でしたが、鋼鉄はより丈夫で強固でした。さらに鉄が建造物に使用されるようになり、大建造物が立てられます。鋼鉄の建造物として当時を代表するものは、ブルックリン橋です。マンハッタンとブルックリンを繋ぐこの橋は、1883年にドイツ系移民技師ローブリングが指揮をとり建設しております。建設物ラッシュと、高層化競争か本格化します。
ドイツ系移民ジョン・D・ロックフェラーが第一人者、といいますか、彼の専売特許でした。スタンダード・オイル社を設立し、全米の精油、搬送、流通までを独占(支配ですね)し、巨額の富を築きます。もともと街灯や部屋の明りに使用された灯油も、1882年に発明王:トーマス・エジソンがローアーマンハッタンに中央発電所を設立し、マンハッタンに電灯を灯すようになり、電力に取って代えられます。この後は、ご存知の通り、大衆自動車の時代が来ましたから、ガソリンの需要がロックフェラーに莫大な富をもたらしました。もちろん、立役者は、エジソンの生涯の親友として知られる自動車王:ヘンリー・フォードです。自動車生産の効率化を図り、大量生産を始めた人物です(フォードは1800年代の後半から自作自動車を生産しておりましたが、爆発的な成功を収めたT型フォードは1909年に販売を開始しました)。
現在ではファッションの中心となっているニューヨークですが、アパレル産業は、1800年代の半ば頃からニューヨークで興りました。もともと洋服は裕福層がテイラーに特注(カスタムメード)で作らせていました。テイラーは貧しい移民が最初についた職業の一つです。シンガーが自動裁縫機(ミシン)を発明し、洋服の大量生産が可能になります。服飾産業はそうして、貧困区域の新移民に職を提供し、ローワーイーストやヘルズキッチン(タイムズスクエアーの西)などで発展、デパートなどの新しい流通形態とともに大衆消費時代が始まります。現在でも、ローワーイーストの一部(チャイナタウン)や、ガーメント・ディストリクト(タイムズスクエアーの南)に産業は残っています。
ニューヨーク最大のデパート、メイシーズ(Macy’s)は1853年に、また、デパート王:A.T.StewartのDry Goods Storeは1869年に創業。その後、Brooks Brothersや、Lord and Taylor、Tiffany’s Jewelry、Stern’sといった小売店の雄が、ブロードウェイ沿いに次々と開店いたしました。当初は、衣料や布地を販売していた小売店は、70年代にはデパートと呼ばれる総合小売形態に姿を変え、ライバルと競争しながらファッションや流行をともに作り出しました。現在でもメイシーズ(34丁目移転後)のエスカレーターは木でできており、古き時代を感じさせます。
産業があって資産が生まれ、資産があってウォール街が隆盛を極めます。18世紀の金融業界にも産業革命で生まれた資産が集まり、その影には財をなした財閥が色濃く影響を及ぼしました。
ギャング・オブ・ニューヨークという映画は、アイルランド系移民のギャングが、民主党の牙城として発展してゆく政治団体タマニーホールの歴史に沿って描かれていました。19世紀の市政は、贈賄、ギャング、買票などが癒着した、まさに悪の巣窟でした。 その中心で権力を支配していたのが、タマニーホール(タマニー協会:14丁目パーク街)です。市政を裏から操る民主党そのもので政党マシーンとも呼ばれております。パブ(飲み屋)を本拠としたアイルランド系移民やギャングを巧みに操り、警察や、消防、政治と一体化します。白人の中では低所得層が多かったアイルランド系移民ですが、ギャングという裏の力と民族人口の票数を武器に、投票をコントロールし、ニューヨーク市政を裏から操ったわけです。このニューヨークの悪政は1900年代初頭まで続きます。
既にコロンビアカレッジ(1754年)、ニューヨークユニバーシティー(1831年)という私立校は存在しておりましたが、1848年に公立であるニューヨーク市立大学が設立されます。創設者は初代駐日公使として日米修好通商条約を締結した、アメリカ外交官タウンゼント・ハリスです。20校近くの4年制・2年制大学を有する、全米有数の巨大大学群となります。移民子息の教育に貢献しています。ニューヨークの財界人も多く輩出しており、映画ウォールストリートでもチャーリー・シーンが卒業した大学という設定になっておりました。現在でも、市立のハーバード、または夜学のハーバード(仕事の後、学位を取りに来るビジネスマンが多いため)と呼ばれるなど評価は高く、ビジネス学部名誉教授で国際経済学者の霍見教授など教鞭をとられており、日本にもなじみ深い大学です。
もともとニューヨークには奴隷市場があり、最も多くの黒人奴隷が所有されていました。しかしながら19世紀に入り、ニューヨークは黒人に対して自由を開放していきます。18世紀後半のニューヨークでは20%の白人が黒人奴隷を所有しておりましたが、1820年代には、黒人奴隷は約500人までに減少し、1827年には全米ではじめて黒人奴隷の解放を宣言します。黒人にとっては全米で最も自由を享受できる土地となります。
19世紀初頭までタバーンが市民の社交場として役割を果たします。タバーンとはレストラン、宿、裏庭(ドッグ・ファイト「闘犬」、ギャンブルなどの催しなどもありました)などが一体となった集会所でした。まだ文盲が多く新聞を読めない移民は、タバーンで市政を議論していました。寄り合い所や町内会のような役割です。移民の増加によりタバーンも多様化していきます。ドイツ系移民でしたらサルーン(Saloon)、アイルランド系移民でしたらパブ(Irish Pub)と呼ばれる飲み屋が移民にとっての集会所となり、ニューヨーク市政にも影響を及ぼすほどになります。
移民者はローワーイーストサイド(現在のチャイナタウンあたり)に最初に居住するのが通例でした。この一体は、ドイツ系、アイルランド系、イタリア系、ユダヤ系、中国系と移民時代の移り変わりとともに居住する民族が変化してきた区域です。ゲットーとも、スラムとも呼ばれた区域で、住宅事情はおおむね劣悪でした。テナメントと呼ばれた4,5階建ての煉瓦造りの建物が住居となります。低賃金、失業、不衛生などの問題が常に関わりあう区域で、次々に訪れる移民者のため入居者は後を絶たず鮨詰の様相でした。現在でもほとんどのテナメントが同区域に残っております。ゴッドファーザーⅡでロバート・デ・ニーロが住んでいたところがまさに当時のテナメントです。
文化生活は明らかにアッパークラス(裕福層)文化とローワークラス(貧困層)文化との2つに分かれました。アッパークラスは、オペラを好みAstor Place Opera Houseなどを寄贈しパトロンとなります(現在のグリニッジビレッジのブロードウェイ沿いあたりに多く建てられました)。また、庶民文化を代表した現在のミュージカルの原型もこの頃にできております。当時は、貧しい移民の生活を題材としたもの(Bat Boyなど)が主流でした。涙なしでは語れない、、、そのような内容で貧困層にとっては大切な娯楽となっていたようです。